小说的资料家纹篇 (第3/3页)
伊达氏へと伝わっていった。その伊达氏はまた最上氏へと分譲している。
【橘】 『见闻诸家纹』のころ(応仁末年=1468~文明二年=1470までの间に成立)では、武家の间に多くみあたらない。薬师寺扫部助元隆の三つ橘纹と小寺藤兵卫尉の三つ橘に藤巴が记载されている。戦国末期に台头する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘纹をしようしていた。 【丸に茑】 椎名氏、富田氏などのほか、高安河内入道永隆の纹が『见闻诸家纹』にみえる。戦国末期に台头した六郷氏や藤堂氏が茑纹を用い、徳川一族の松平诸家のほとんどが茑纹。しかし、応仁の乱直前のころの合戦をモデルに书かれた『永仓追罚记』には茑纹がない。従来、茑は葡萄の叶から考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私见としてあげれば、足利氏の桐纹の下赐が、次第に直接的ではなく、多くは赔臣的立场への派生を帯び、そのまた家来へと枝条的となっていったため、桐纹泛滥を避けるデザイン的知恵が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐纹の下部の叶だけを残し、上の花を除いてその部分を叶に変えれば、桐纹が一転して茑の纹となる。まだ花咲かぬという谦譲の精神をこめ、末梢的系谱の人々へ与えたのではないだろうか。 【鹤の丸】 『见闻诸家纹』では、楢叶左京亮の対い立鹤、佐脇五郎明房の云月に舞鹤、波々伯部彦次郎贤豊の松喰い鹤、大和氏远江の蒲生氏の二つ引両に対い立鹤、石川氏の飞び鹤がみえる。『永仓追罚记』には高井左卫门尉の松に鹤、南部氏の菱鹤、近江御门の後裔葛山备中の庵の内対い鹤などがある。戦国末期には、诹访氏や森氏の鹤の丸などがある。 【三つ巴】 古代に海の彼方から渡来したデザインである。『见闻诸家纹』には、曽我氏の云に左三つ巴、赤松兵部少辅の二つ引両に左三つ巴、宇都宫氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景越後の长尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鳞巴、丸豊前七郎朝达の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ积み巴、山下左京亮の桝形に右三つ巴、金山氏の一つ引両に并び巴がみえる。その他、厳岛大野温科氏らの替纹として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宫の神纹であった巴纹は、武家社会で人気があったことはいうまでもない。 【丸の内二つ引両】 二つ引両は足利氏の代表纹。引両纹は幕纹からの転移といわれるが、その起源については明らかではない。『见闻诸家纹』によると、吉良、渋川、石桥、斯波、细川、畠山、上野、一色、山名、新田、大馆、仁木、今川、桃井、吉见氏ら一族や阁僚メンバーがみえるほか、他纹と组み合わせたものに、赤松、三浦介、远山、富永、长野、庄、吉川、波多野、神保、三渊、蜷川、川原、中沢、饭川、安木、大和、绮(Kawata)、黒坂、平尾、金山、物部、矶谷、三木、西面氏などの武将にみえる。 【下り藤の丸】 藤原庶流を名乗る武将の家纹である。加藤、佐藤。斎藤、近藤、首藤、进藤、武藤、尾藤、後藤…など庶流が用いた。『见闻诸家纹』では、讃岐の大野氏、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏、美浓の伊贺氏、播磨の小寺氏、近江の箕浦氏などがみえる。『永仓追罚记』では、越中の神保氏、三河の铃木氏その他がある。 【三つ星に一文字】 三つ星は大将军星左右将军星の三つを指すので三武、武神としての信仰がある。一文字はカツと発音するので武威をシンボル化して造成された。『见闻诸家纹』では、本郷氏、渡辺氏、飨庭氏。一文字三つ星は、长井毛利竹藤萩绮氏。三つ星に吉の字は毛利氏。三つ星に一文字は、渡辺曽祢崎氏が用いた。 【隅立て四つ目结】 近江の佐々木一族の代表家纹として有名。『见闻诸家纹』では、佐々木大膳大夫入道生観の四つ目结。二松饭田氏の三つ目结。本庄氏の九つ目结、武藤左京亮信用が寄挂り目结、椎屋氏が四つ目结、本间氏が十六目结、能势氏が丸に十二目结纹とある。なお、佐々木氏の流れといわれる宇多源氏の武将京极建部亀井氏らも四つ目结。近江を出自とする尼子氏が七つ割り平四つ目结。越中の佐々氏は滋目结を用いた。 【织田木瓜】 もともとは海の彼方から渡来した贵族纹だが、武家社会に広く普及した。织田信长の家纹として有名だが、もとは朝仓氏の陪臣的家系だった。したがって朝仓氏も同纹。『见闻诸家纹』では、木瓜に二つ引両の富永氏、六つ木瓜の尾张守政长の被官游佐河内守、二つ木瓜に庵の海老名与七政贞、并び木瓜の岩城中务丞宗直、五つ木瓜の宫氏、大平氏。さらに、四つ木瓜の八木氏、大田垣氏、池田充正。三つ盛木瓜に二つ引両の三木氏などがみえる。 文中にひいた『见闻诸家纹』は、一名を「东山殿御纹帐」ともいわれる通り、室町幕府八代将军足利义政の顷の将军家を初めとして、守护大名から国人层に至るまでの诸家二百六十ほどを次第不同に収録したもので、武家家纹の研究には欠かせない史料としてつとに有名である。 また、『永仓追罚记』は『羽継原合戦记』ともよばれたもの。これの原典となる『永仓状』には家纹のことは记されていないという。しかし、纹章武将名についてみるとき、『见闻诸家纹』に比べて劣ることは否めないが、内容的に大过がないのではないかと考え、暂定的参考书にとりあげた。
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